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枕だけで終わってしまった記事
週末明けの月曜日、僕は朝食を家で摂らずに会社近くで食べることにしている。もっとも自宅で食べる朝食といっても、それはたいていの一人暮らしの人間の例に漏れず、極めて機能的であり、かつ見た目は貧相なものであるのだけれど。

以前にも書いた記憶があるけれど、月曜日の、この30分程度に過ぎない僅かな朝食の時間は、これからの一週間をなんとか乗り切らないといけない僕にとっての、とても重要な時間になっている。大袈裟なようだけれど、この時間に何を考えていたかによって、その後の168時間が決まるのではないかとさえ思っている。
ひらめきや創造力の持ち合わせが無い、ごく一般的な人間にとって、仕事とは小心なほどに周到な準備と心がけで決まるものなのだということが、遅まきながらようやく分かってきたような気がする。
月曜日の朝の30分間は、僕にとって、そういう意識に切り替える時間だ。

そういった、僕なりに大切な月曜日の朝を過ごす場所はたいてい決まっているけれど、そこで頻繁に顔を合わせる老人がいる。
やや日本人離れした容貌をしていて、あえて例えるならば、老境を迎えた頃のヘミングウェイに少し似ている。顎の張った輪郭を持ち、白く染まった髭をたくわえている。店内でコーヒーを飲んでいるときでも、くたびれた鳥打帽を外すことはない。

おそらくヘビースモーカーだ。僕は自分が煙草呑みのくせに、人が吸う煙草の匂いを好まないという厄介なところがあって、僕自身、酒が入るときをのぞいて公衆の場ではまず吸わないのだけれど、この老人の煙草を吸う姿は嫌いではない。
煙草の銘柄は一定していないが、愛煙家が闊歩していた旧き時代の名残の銘柄を好むようで、ピースのときもあれば、ハイライトを咥えているときもある。

このオフィス街の喫茶店で、彼は異彩を放っている。それはおそらく、彼が仕事の現役から離れているがゆえに放たれているのだが、それでも目の光は消えていない。
その光は、世を拗ねた目からは決して発することのできないものであって、明らかに人生への現役感覚から来ているんだろう。
その現役感覚とは、仕事や学校という、ある意味で受動的に育まれる社会性とはまったく関係の無い場所から生まれるのだということを、彼の目は僕に教えてくれる。

彼を見た、たいていの男はこう思うのではないだろうか。
「ああいう老人になりたい」
僕もそう思う。少なくともその佇まいには有無を言わさずにそう思わせるところがある。

けれども僕は、彼が老境に差し掛かるまでのその生涯を知ることはできないし、おそらく綺麗ごとだけで済まされるような人生では無かっただろう。
そして彼も、いつかはさらに衰え、その眼も光を失うのだ。

僕たちの世代(果たして「世代」という考え方が、今でも有効なのかは分からないけれど)は、「成長への拒否」と「老成して留まる願望」という、矛盾した二つを抱えているのでは無いかと思うことがある。
「可愛いおばあちゃんになりたい」というのは、まさにこの矛盾した願望を同時に表現した言葉だと思うのだけれど、この言葉の裏にあるものは、実は絶望的なまでの閉塞と停滞でしかない。

ここで留まれたらいい。この心地よい停滞の中で暮らしていきたい。純粋無垢で、予定調和の世界。
けれども僕たちはいやでも年を重ねなくてはいけないし、それに伴って背負うものや、抱える汚れた澱は増えていく。
僕たちが、ただ一つ手にしている確かなもの。それは僕たちの生のベクトルが、絶えず死という終わりに向かっているということだ。それは止まることが無い。
その下り方向のエスカレーターを無理に駆け上がろうとするか、あるいはそのエスカレーターの速度が低いのを良いことにして、気がつかない振りをするか。

回転しない頭をどうにかウィークデイのペースに戻そうと悪戦苦闘している月曜日の僕にとって、泰然としてコーヒーをすすり、紫煙をくゆらせる老人の姿は、魅力的であるがゆえに危険すぎる。
その姿は、僕がこれから過ごすであろう数十年間の営みを、老成への、言い換えれば、僕たちにとっての甘美な停滞に向けての過程に過ぎないと思わせるからだ。

僕がこれから過ごす人生が、たとえ後退につぐ後退というものになろうとしても。決してこの場所に留まってはいけないだろうし、留まることは無理だろう。
穏やかな人生や時間というのものは、きっと常にそこに在るものではない。
時間が次々に繰り出してくる残酷な仕掛けの、その僅かな合間に感じられることに違いないのだから。

7日間168時間の中で訪れる、高層ビル群に埋もれた喫茶店で過ごすこの時間のように。
by fabken | 2006-11-18 12:50 | naked
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